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七一二年、太安万侶が元明天皇に献上した『古事記』。その序には「稗田阿礼」という名が残ります。しかし、その人物がどのような人であったのか、確かなことは驚くほど多くありません。
本作は、その史実の空白に想像を加え、「阿礼」を一人の人物ではなく、姉エアレ、妹オトアレ、そして次の世代へ受け継がれる呼び名として描く歴史小説です。
幼いころ病で視力を失ったオトアレは、足音、衣擦れ、息、水の音から世界を知り、一度聞いた言葉を細部まで覚えていきます。姉エアレは字を読み、舞い、声を紙に留めようとします。天武天皇と鸕野皇后――のちの持統天皇――に見いだされた二人は、各地の系譜と伝承を集める旅へ出ます。
出雲、筑紫、紀伊。土地が変われば、同じ神にも、同じ出来事にも、異なる語りがありました。そして、消えないはずだった記憶にも、やがて揺らぎが生まれます。
声をそのまま残せば、紙が尽きる。意味だけを残せば、声が失われる。何を残し、何を捨てるのか。誰が書き、誰が選び、誰の名が残るのか。
姉妹が何十年も積み上げた声と紙は、時代を越え、最後には四か月で三巻へと縮められていきます。そして完成した『古事記』の序を前に、最後の阿礼は一言だけ告げます。
「違います」
太安万侶の墓から始まり、吉野・飛鳥・藤原・平城の時代を経て、再び現代の奈良へ。『古事記』そのものの現代語訳ではなく、『古事記』が生まれるまでの「声・記憶・文字・選別」を描いたフィクションです。
★ 電子短縮版
刊行用長編版の全24章の章立てをそのまま残し、各章を中心となる場面に絞って再構成しました。人物設定・年代・物語の結末は長編版と共通しています。
★ 初めて『古事記』に触れる方にも
神名や古代史の知識を前提とせず、川の音から始まる姉妹の物語として読める構成です。本文では初出の天皇について後世の天皇名を角括弧で添えています。
※ 本作は史実の空白に想像を加えたフィクションです。稗田阿礼を複数の女性として描く設定、姉妹の旅、独自の記録用の印、太安万侶との関係などは小説上の創作です。
