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グループワークの中で、「判断」は誰のものになっているのか
グループワークの中で、「判断」は誰のものになっているのか
近年、小中学校の授業では「協働的な学習」、いわゆるグループワークが重視されるようになっています。
話し合い、意見を出し合い、協力して答えにたどり着く——理想的には、とても大切な学びの形です。
一方で、授業参観や現場の声を見聞きする中で、少し気になる場面も目にするようになりました。
それは、
グループの中で、理解の早い子が自然と判断役を担い、他の子はその判断を待つ側に回ってしまっているように見える場面です。
もちろん、これはすべての教室に当てはまる話ではありません。
ただ、そうした構図が生まれている教室も、少なくないのかもしれない——そんな印象を受けることがあります。
「協働」が「代理判断」になってしまうとき
グループワークでは、複数人が同時に話し合います。
その中で、理解が早く、言語化が得意な子が中心になるのは自然なことです。
ただ、その結果として、
- ある子が考え、判断し、答えをまとめる
- 他の子は、それを聞き、うなずき、写す
という役割分担が固定化してしまうとしたら、どうでしょうか。
表面上は「みんなで学んでいる」ように見えても、
判断そのものは一部の子に集中し、他の子は判断のプロセスから外れてしまう。
そんな状態が生まれている可能性もあるように感じます。
どこかAI時代と似ている構図
この構図を見ていて、ふと頭をよぎるのが、AIとの関係です。
AIが答えを素早く出してくれると、
私たちは「考えなくても済む」便利さを手に入れます。
その一方で、判断の機会そのものは減っていきます。
グループワークの中で起きていることも、
もしかするとそれに少し似ているのかもしれません。
- 優秀な子が、いわば“ローカルAI”のように判断を担い
- 他の子は、その判断を受け取る側に回る
そうなると、判断は共有されているようで、実は委ねられてしまっている。
そんな構造が生まれている可能性も否定できません。
問題は「グループワーク」そのものではない
誤解のないように言えば、
グループワーク自体が悪い、という話ではありません。
むしろ問題は、
- 基礎的な知識や技能が十分でない段階でも
- 一律に「話し合い」や「協働」が求められていること
ここにあるのではないか、と感じます。
判断するためには、材料が必要です。
材料が十分にないまま協働だけが先行すると、
判断できる人と、できない人の差が、かえって広がってしまう。
そんな逆説も起きうるのではないでしょうか。
「判断する経験」は誰のものか
教育の中で本当に大切なのは、
正解にたどり着くことだけではなく、
自分で考え、迷い、判断する経験そのもののはずです。
もし授業の中で、その判断が
- 特定の子に集中し
- 他の子は「判断待ち」になっているとしたら
それは、少し立ち止まって考えてみる価値のある状況なのかもしれません。
おわりに(出典について)
本稿は、
2026年2月1日配信の
「小中学生の学力低下は文科省が示すように『スマホが原因』なのか?
― 教育現場で指摘される『グループワーク重視』の弊害」
(ノンフィクションライター・杉浦由美子氏)
という教育現場レポートを読み、考えたことをもとにした私見です。
断定ではなく、ひとつの仮説として、
グループの中で『判断』が誰の手にあるのか。
そんな問いを共有できればと思い、書いてみました。